厄災の不安とスポーツの力 〜がんばろうKOBEの記憶〜

column D3

こんにちは.松原です.
皆さんは東京オリンピック・パラリンピックをご覧になりましたか?
オリンピック日本代表は史上最多となる金メダル27個を含む58個のメダルを獲得し,さまざまな記録が生まれました.
また,大会期間中は「スポーツの力」に代表される言説と,選手の活躍と感動の物語がメディアを通じて連日供給されました.

今回は「スポーツの力」なるものを考える際に,1995年の神戸とプロ野球球団オリックス・ブルーウェーブの「がんばろうKOBE」の記憶を取り上げていきます.

厄災とスポーツ

日本は自然災害が多い国です.
毎年のように自然災害が起こり,その被害が報道されます.
災害に見舞われた被災地では,多くの不安を抱える事になるでしょう.

災害の被害を伝える報道の中では,自然災害の被害地でのスポーツチーム,特にプロ野球球団の活躍を,被災地の復興の象徴であり,被災者を勇気付けるものとして結びつけ表現されます(高尾(2006)).

例えば,2011年の東日本大震災と,2013年の東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝・日本一は記憶に新しいと思います.

また,古くは1959年に伊勢湾台風に見舞われた名古屋市を本拠地とする中日ドラゴンズが,「被災者救援シリーズ」と銘打って試合を興行し,利益の一部を義援金として寄附した事例があります.

そうした被災地と野球球団の活躍をつなげる報道の中で,特に大きく取り上げられたのが,1995年の阪神・淡路大震災に見舞われた神戸と,神戸を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブの優勝,そして翌年の日本一の事例です.

神戸の市民球団 オリックス・ブルーウェーブ

プロ野球球団オリックス・ブルーウェーブは,イチローがメジャーに行く前に日本でプレーしていた球団で,神戸の市民球団を謳っていました.

そのルーツに,パリーグの名門阪急ブレーブスを持ち,1988年からオリックス球団となり,1991年に西宮球場からグリーンスタジアム神戸(現 ほっともっとフィールド神戸)に本拠地を移転してきました.



夕映えの天然芝が綺麗なほっともっとフィールド神戸, 2021年9月9日著者撮影


神戸移転後は神戸の市民球団として活動を続け,1994年にはイチローが初の200本安打を打ち,イチローフィーバーと呼ばれる現象により人気が出ていました.

1995年 阪神・淡路大震災と「がんばろうKOBE」

1995年1月17日5時46分,神戸,大阪などの近畿地方の広範囲を大地震が襲いました.

オリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸市も深刻な被害を受け,球団内部で本拠地を一年間のみ移転することも議論されましたが,オリックスの宮内オーナーが「こういう状況だからこそ,被災地に勇気を」と主張したことで,通常通り本拠地(グリーンスタジアム神戸)でシーズンを迎えることになりました(デイリースポーツ(1995) p.4-5).

開幕に際し,オリックス・ブルーウェーブはユニフォームの袖に「がんばろうKOBE」と縫い付けプレーし,この年優勝を決めます.それは,日本中を巻き込んだ現象となりました.

オリックス・ブルーウェーブを特集したベースボールマガジン別冊(2020)には,当時の状況が次のように語られています.

えのきど:あの震災の後というのは,日本全体がオリックスを後押ししたんです.みんながオリックス頑張れってさ.

石田:94年にイチローが210安打を達成,95年に「がんばろうKOBE」で優勝,ところが日本シリーズで野村ヤクルトにボコボコにやられた.96年は,リーグ優勝は当たり前,日本シリーズで絶対に勝つんだというモチベーションが開幕前からビンビンにつける.そのステップアップが,みんながオリックスに気持ちを寄せるというドラマをより加速させたと思うんです.

イチローというスーパースターが居て,チーム全体が被災地のファンのためにと活躍,そして優勝したことで,「がんばろうKOBE」の記憶は今でも語り継がれています.



建て替え中の神戸市庁舎の仮囲いに描かれた「がんばろうKOBE」, 2021年9月9日著者撮影


厄災の不安とスポーツの力 そのギャップ

1998年にオリックス・ブルーウェーブのホームゲーム観戦者を対象とした調査によると,被害を受けた人の9割以上が1995年の震災の年にオリックス・ブルーウェーブの優勝によって勇気づけられたと回答しました(高橋(2000)).

しかし,被災地の野球チームの活躍がメディアを通じて報道される中でも,実際の復興,そして被災者の思いに必ずしも違和感なく受け入れられたわけではないようです.

新聞等の記事において,野球チームの活躍と被災地復興を関連づけられたとしても,実際には被災地復興が急ピッチで進んだわけではない.見方を変えれば,このような記事は,読者が「野球チームは試練を乗り越えて被災地復興をもたらした」 と意味づけることを容易にしていたという解釈も可能である. 当時のオリックス・ブルー ウェーブの私設応援団長は,「オリックス・ブルーウェーブの優勝が被災者にもたらした部分は否定しないが ,実際に復興につながったかといえば話は別」と述べた事実が報告されている.(高尾(2006),括弧内の引用は高橋(2000))

野球チームの活躍が感動を生み,被災者に活力をもたらしたことは事実だとしても,報道によって供給された物語と,被災地の現実の生活,そして被災者の不安との間にズレが生じていた事実があります.

被災地における野球チームの活躍は,必ずしも新聞および雑誌等報道において構成された物語に過ぎないのではなく,実質的に被災地に貢献した点も忘れるべきではないと言える. (中略) 野球チームの被災地復興への支援を考慮すると,社会情勢が悪化しているときこそ,地域の野球は地域住民の求心力を強めることができると考えられる.(高尾(2006))

メディア報道の中に躍る物語によって投射されるスポーツの力は,確かに単なる物語ではなく実際に厄災に見舞われた人々へ活力を与えるような性格を持っているでしょう.そのため,社会情勢が悪化している時こそ,日々の生活に活力を与え人々の求心力を強めるスポーツの力が必要とされるのでしょう.その力を十全に発揮するためには,メディアがスポーツの物語を供給する前に,不安な生活の現実を受け止める事が大切ではないでしょうか.

まとめ:コロナ禍の東京オリパラを振り返って

改めて,コロナ禍の中で開催された東京オリパラについて私見を述べさせていただきます.

緊急事態宣言下の開催に対し批判はありつつも,活躍する選手の姿は多くの感動が生まれ,膨大な数の物語が供給されました.

特に今大会は,1年延期されて開催されたため苦労した選手も多く,コロナ禍という厄災によって苦労したというシチュエーションを観戦側も選手と共有しており,感動が生まれる余地はあったと思います.

しかし,私は大会期間中は日々供給される感動の物語に対して食傷気味になり,感動が消費されていくかのような感覚に陥りました.

一生にもう一度拝めるかわからない自国開催ですが,終始画面の先の出来事であり,閉幕後はワイドショーやバラエティー番組で活躍したアスリートがピックアップされますが,それすらも日々の生活とは離れたところにある消費の対象という気がしてなりません.

思うに,コロナ禍という厄災においては,オリパラのようなスポーツイベントを行うこと,それ自体に厄災の拡大が懸念され,不安の対象になっていました.

そのため,日常の不安を増大させる可能性さえある対象のまま暴力的に大量に供給された今大会の「スポーツの力」は,この国に住む人々の集合的記憶としての求心力を有せるのかと甚だ疑問があります.

厄災で社会不安が生じた状況に対して,スポーツには力があるでしょう.しかしそれは,決してメディアの賑やかしとして消費されるべきものではなく,もっと人々と地続きなものである姿勢が必要ではないでしょうか.

駄文にお付き合いいただき,ありがとうございました.

文責  :松原 弘明
ご意見等:h.matsubara[あっとまーく]uec.ac.jp

参考文献・サイト:

  • 内田隆三(2002)『国土論』筑摩書房.
  • 高尾堅司(2006)「新聞などの報道に見る被災地の復興と野球の関連」,川崎医療福祉学会誌 Vol. 15, No. 2, pp.621-626.
  • 高橋豪仁(2000)「新聞における阪神淡路大震災に関連づけられたオリックス・ブルー ウェーブ優勝の物語とあるオリックス・ファンの個人的体験」,『スポーツ社会学研究 (8)』, pp.60-72,128.
  • デイリースポーツ(1995)『’95 パ・リーグ優勝!オリックス・ブルーウェーブ』,神戸新聞総合出版センター.
  • ベースボールマガジン別冊薫風号(2020)『1989-2004 オリックス ブレーブス&ブルーウェーブ 青波伝説』,ベースボールマガジン社.
  • オリックス・バファローズ 「がんばろうKOBE」スペシャルサイト(2010)(2021/09/21最終閲覧)

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