こんにちは、B4の笹川です。
皆さんには、印象に残っている嘘はありますか?
普段の何気ない嘘の多くは忘れ去られてしまうので、メディアで報じられるような隠蔽や詐欺などの犯罪チックな内容が多いかもしれません。
しかし、世の中に存在する嘘は、そのような事件性の強いものよりも、何気ないものばかりであり、それ故に記銘されにくいと言われています。(参考2)
そこで、今回の記事では、そんな日常に潜む嘘に対して、私たちが普段どのように認識しているのかについて、認知バイアスの観点からお話しします。
まず初めに、そもそも嘘とは何でしょうか。
普段何気なく使っている言葉でも、「その意味・定義は何か?」と問われると、存外答えに詰まってしまうものですね。
そこで、国語辞典と心理学辞典の二つの辞典で「嘘」の意味を調べてみたところ、次のように記述されていました。
事実でないこと。また、人を騙すために言う、事実とは異なる言葉。(大辞泉)
意図的に騙す陳述を指し、単なる不正確な陳述とは異なる。(心理学辞典)
見比べてみると、若干ニュアンスが異なることに気付きます。
どちらにおいても「嘘」という言葉の持つ性質として、”虚偽性”と”意図性”(参考4)が存在するようですが、国語辞典では、”意図性”が少し弱く、その有無は不問であることが読み取れます。
一方で、心理学辞典における「嘘」は”虚偽性”と”意図性”が両立している必要がありそうです。
また、アカデミックな界隈では、嘘(Lie)と並べて使われる概念に欺瞞(Deception)というものがあります。 欺瞞とは、他者を意図的に誤った方向に導くことであり、嘘はそのサブタイプであると定義されています。(参考2,3)
人を騙す時、必ずしも嘘は必要ではないのです。 真実のみを話して人を陥れたり、非言語的な動作で感情を偽ったりすることも可能です。つまり、前述した性質的な面から嘘と欺瞞を定義すると、次のように表すことが出来ます。
嘘=”虚偽性”+”意図性”+”言語性”
欺瞞=”虚偽性 / 真実性”+”意図性”+”言語性 / 非言語性”
こうして見ると、私たちが嘘として認識しているものには欺瞞が多く含まれているように思えますね。
さて、本題です。 私たちは日常的に触れる嘘について、どの程度を嘘だと認識しているのでしょうか。 次の二つのバイアスに基づいて考えてみます。 便宜上、以下で扱う嘘は欺瞞も含むものとしていますので、ご了承ください。
人は話の真偽を、相手の言動に基づいて客観的に判断するのではなく、その人が真実を語っていると信じ込んでしまう傾向があり、これは真実バイアス(truth bias)と呼ばれています。
実際に、私たちは日常的な会話において相手が嘘を吐いているかもと身構えていることはほとんどないですよね。むしろ、こうした認知バイアスのおかげで、嘘だらけの日々の生活に適応できているのかも知れません。
因みに、人は一日に何回嘘を吐き、何回嘘を吐かれたと認識するのかを調査した実験 (参考6,7) によると、人は一日に平均1.5~2回嘘を吐き、約0.4回嘘を吐かれたと認識するという結果が得られたそうです。やはり、嘘の絶対数に対して嘘を吐かれたと感じる割合は小さいですね。
真実バイアスとは反対に、話の内容を嘘だと思い込んでしまう傾向を虚偽バイアスと言います。
真実バイアスの話を読んで、いや、自分は疑い深いからもっと嘘を見破れているはずだ、と思った人もいるかも知れません。 そんな人たちに向けて一つ面白い研究を紹介します。
『Lie to Me』というドラマはご存知でしょうか? アメリカで放送されていた、精神行動分析学者が表情から嘘を見抜き、犯罪捜査に協力する姿を描いたドラマシリーズです。
その研究 (参考8) では、このドラマの視聴者と一般人を対象に、ある事柄について真実か虚偽の証言をしている人達のインタビューを見てもらい、誰が嘘を吐いているかを判断してもらうという実験を行いました。
その結果、ドラマ視聴者は、真実を述べている人に対して嘘を吐いていると判断する傾向が高く、人を疑いやすいことがわかりましたが、真偽判断能力については有意な差は見られませんでした。
つまり、疑心とはあらゆるものを虚偽と見做しやすくなってしまう、虚偽バイアスであって、嘘を見抜く力との因果関係はないのです。
想像以上に私たちは嘘に対して鈍感なようです。
どんな嘘でも見抜けば良いというものではありませんが、少なくとも、嘘を見抜くことは嘘を吐くことよりも難しいという事実は認識しておいた方が良いかも知れません。
嘘によって実害を被らないためには、自分にかかったバイアスをメタ認知し、真実バイアスと虚偽バイアスを上手く切り替えていくことが大切だと言えそうです。
文責:笹川