こんにちは,橋山研 D3の松原です.
この研究室ブログも2年目に突入しました.いつも読んでいただきありがとうございます.
今回は,「なぜ人は一つのプロ野球球団に入れ込むのか?」について,「スタジアムで観戦する」という体験から考察していこうと思います.
今回は,「2人でスタジアム観戦に行く人」になり切って,スタジアムの外野席で試合を観戦するまでの動きを見ていきましょう.
プロ野球をスタジアムで観戦するなら,まずはスタジアムに入らなければいけませんね.
最初に「スタジアム」という空間そのものに注目していきましょう.
杉本(1992)は,「野球をする選手と観客が一体となる『場所』『一体となって盛り上がる場所』としてのスタジアム(野球場)」について,以下のように述べています.(同書 ⅲ)
まず,杉本はスタジアムの「祝祭空間」としての側面を指摘しています.
現代のスタジアムは一般に巨大な建造物で、すり鉢状になり、大スタンドが外界と仕切る「結界」となっていて、一種の閉じられた空間をつくりだしている。ドーム系スタジアムともなれば、その間がいっそう強くなる。スタジアムは万余の大観衆が野球(フットボールやサッカーなども)を楽しむための遊びの大空間であり、(中略)大観衆の集まるゲームともなれば、鐘や太鼓やトランペットに風船飛ばし、派手な横断幕まで揃っているから、まるでお祭り騒ぎ、スタジアムはまさに現代の 「祝祭空間」 そのものと化してしまう。(同書 p.177.太字は引用者)
また杉本は,当時のアメリカのスタジアム空間の機能を次のように表現しました.
スタジアムは、大人にとっては日常雑事から解放され、すり鉢状の閉じられた独特の祝祭空間的なムードに酔うことができる。ストレス解消にはもってこいの場だ。子供たちにとっては家族や友人と楽しく過ごせる場所である。[引用者註:当時注目されていた]ドーム球場の場合は、一種の劇場空間の感覚だ。オルガン演奏が地元チームの応援をリードするし、アナウンサーも地元チームの攻撃の時には観客を煽り立てるように派手にやる。(同書 p.182)
このように,プロ野球を観る舞台装置としてのスタジアムには,外界と内部を遮断する「結界」に覆われており,球場側・観客側双方がスタジアム空間を 非日常の「祝祭空間」 として作り上げるような仕掛けが施されています.
この「非日常空間の創出」という観点は,現在のプロ野球球団も意識しているようです.昨年の私の経験ですが,某球場の試合を観に行った際,試合後のアンケートで「観戦を通して非日常を体験できましたか?」といった項目がありました.
スタジアムが仕事・学業・家事などの日常を外部化することで,非日常の「祝祭空間」でゲームを楽しむことができるのです.
(少し話はそれますが,「日常」を完全に不可視化したテーマパークとして,東京ディズニーリゾートがあります.野球場からは外の街並みが見えたり,企業の広告が出ていたりしますが,ディズニーではパーク内から空以外の日常へ続く「外部」が全く見えないような作りになっています.ディズニーリゾートは,「非日常」を体験するための理想的な舞台装置といえます.)
次に,スタジアムの中に入ったら自分の席を探します.
席を見つけ座ったら,「自分の周り」とスタジアムの「向こう側」でユニフォームの色が違う,あるいは「見ている方向」が違うのが目につくと思います.
これは,「私たち」と「彼ら=他者」の可視化というスタジアム空間の機能です.
では,スタジアムの「向こう側」の人々はなぜ「彼ら=他者」となるのでしょうか?
フランスの社会学者ブルデュー(1979=2020)は,人がある趣味を持つことに対し,「趣味とは他の趣味に対する嫌悪」と次のように述べています.
趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である。そして趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪なのだ。つまり他の趣味、他人の趣味に対する、厭[いと]わしさや内臓的な耐えがたさの反応(「吐きそうだ」などといった反応)なのである。(同書 p.101).
「嫌悪」というと言葉が強いですが,例えば皆さんは普段「パチンコ」や「ギャンブル」を趣味を持つ人の事を見下しているなどということはないでしょうか.あるいは逆に,趣味が「クラシック音楽」という人に対して「ええカッコしい奴」「こいつとは合わない」などと斜めに構えたことはないでしょうか.
自分がある趣味を持つということは,実は,直接語られていない「他の趣味」を見下したり,「こいつとは合わない」と相手自身を否定するような「嫌悪」なのです.
これを野球に関して言えば,「ある特定のチームを応援する」という趣味を持つことは,「そのチーム以外のチームを嫌悪する(敵と見る)」ということです.
「アンチ〇〇(チーム名)」という言葉が代表的ですね.
スタジアムという競技場を囲む構造物は,スタジアムの向こう側に座る人々を,「私たち」とは違う「彼ら=他者」として視覚化していきます.
プロ野球は,席のチケットさえあれば応援グッズを持っていなくとも誰でも観戦できますが,唯一気をつけたいのが「対戦相手のグッズを身につけない」ことです.
特に,応援団や熱心なファンが多く座る外野席では,「違うチームのファン」が迷い込むと時としてファン同士の怒号が飛びかいます.(筆者は実際に怒号が飛び交う場面に遭遇したことがありますが,片方のチームが連敗中ということもあり,ファンが殺気立っててとっても怖かったです.)
また,コロナ禍で今は出来ませんが,かつては各チームで独自の応援歌を歌っていました.
「自分達の歌を歌う」あるいは「彼らの歌を聞く」ということは,それぞれが応援するチームの勝利を祈って反復されるため,スタジアムにより視覚化された「私たち」と「彼ら」の差異が,より先鋭化すると考えられます.
ここからは筆者の仮説ですが,自分のいる位置によって「私たち」ではない「他者=彼ら」を視覚化されるスタジアムの構成は,スタジアム内の人間に「どちらでもない」という態度を許さず,「一つ」のプロ野球球団を応援するように態度の変容を促すのではないかと考えられます.
と言うのも,筆者は研究と趣味を兼ねて,複数のプロ野球球団のファンクラブに入会していますが,(ファンクラブ会員として)所属するチーム同士の試合のときには,「どちらのチームを応援するか」という選択を迫られました.たとえ普段は複数のチームを応援していたとしても,少なくともその試合の間,「どっちも好き」という態度が許されないような態度を強制された感覚に陥りました.
そうは言っても,どっちも好きなんですけどね笑
続いては,スタジアムの席に座った後のことを想像していきましょう.
誰かと一緒に野球を見に来ている場合,隣り合う席は普通同じ方向を向いています.
そこで,例えばグランドに選手の姿があったとします.
そうすると,指を指して「選手がいる」などと相手と確認し合うでしょう.
千葉(2021)は,「人と人がいかにして結びつきを持つに至るか」の根源に,「共視体験」がある事を紹介しています(同書 p.205-17).
「共視(ジョイント・アテンション)」とは,「自分の側にいる者と同じものを見よう、あるいは相手にも同じものを見てもらおうとする行動」のことを言います.
「共視」を通じて、ものを介した関係性が発生する。同じものを見ること、そしてもののやりとりを通じて、ヒトとヒトはコミュニケーションを深めていく。自然界では相手に行動の意図を読まれてしまう不利な白目が、人間が集団を形成し、コミュニケーションを測るという点で逆に有利に働いた。(中略)同じものを見つめるという体験を基盤にして、人間が長い年月をかけて、人間の共有財産である文化を作り上げたのです。(同書 p.215)
人間が「共視」を行えるのは,他の動物と違い「白目」によって「他の人が何を見ているかわかる」ためとされています.白目を持つことは自然界では「相手(天敵)に行動を読まれる」ため,不利なものでしたが,人間は白目の存在によって見ている方向を互いに認識することで「見ているもの」を共有することができ,むしろ仲間と「ものを介して」協力することができるようになったと考えられます.
これは現在でも,「同じ方向を見る」ことにより,結びつきが得られる「共視体験」を生み出します.
「共視体験」で見る先にあるものは,先ほど述べた「他者」である必要はなく,ただ見る「もの」が同じというだけで十分なのです.
このように,スタジアムで同じ方向を見る「私たち」を生み出し,見ている「私たち」と見られている「もの=外部」が意識されることが,「ある一チーム」へののめり込みを生み出すと考えられます.
ここまで,誰かとスタジアムに行くことを想定してきましたが,初めての球場で一人で見に行っても,周りの人と話さない限り,共視体験は得られないですね.
「一人で観に行ってファンになった」という人が居たら,どうしてファンになったのか聞いてみたいものです.
(最後に補足として,プロ野球が生み出す「アウェー感」について述べておきます.高校野球のファンであれば,観戦してもどこか特定の高校を応援するということはないと思いますが,ことプロ野球の場合は,ファン同士で「敵-味方」がはっきり区別されています.そのような空間で,まだファンじゃない時点で観戦すると,周りのファンとの温度差や同調圧力から,「ファンでない自分」と「ファンである周り」との差異に焦点が移り,自分が今いる場を「アウェー」に感じる場合もあるでしょう.スポーツ観戦でいかに「アウェー感」を作らないようにするかを考えなければなりませんね.)
今回は,「スタジアムで観戦する」という体験から,人があるプロ野球球団に入れ込む過程について,3つの差異から考察していきました.
「スタジアムの〈内〉と〈外〉の差異」は祝祭空間としてのスタジアムの非日常性の舞台装置を作り出します.
「スタジアムで視覚化される〈私たち〉と〈彼ら〉の差異」は,〈私たち〉/〈彼ら〉の違いを意識させます.
「スタジアムで同じ方向を見る〈私たち〉と,見られる〈外部〉との差異」は,共視体験を通じて同じ方向を「一緒に」向いている人たちの間で〈私たち〉という感覚が共有されます.
これらの差異は,プロ野球というゲームそのものの外で既に意識されます。つまり,ここまで説明したスタジアム空間で意識される差異は,スタジアムで野球の試合がやっていようといまいと,既に視覚的身体的に意識されるものです.このようなスタジアム空間が意識させる差異が,「一つのプロ野球球団に入れ込む」ように人を要求する余地があると考えます.
(附記:今回ご紹介した3つの差異は,あくまで「なぜ人は一つのプロ野球球団に入れ込むのか?」という問いに対する作業仮説に過ぎませんので,具体的にこれらのパラメータが一番関係している,とまでは述べていません.ご注意を.)
文責:橋山研究室 松原 弘明
ご意見等:h.matsubara[あっとまーく]uec.ac.jp